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陽だまり~暖房のちょっといい話

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チャールズ・チャップリン

チャールズ・チャップリン

Charles Spencer "Charlie" Chaplin
1889年4月16日
イギリスの映画俳優、監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー。自身で作曲を手掛けることもありました。

1999年にアメリカ「タイム」誌が選んだ「20世紀の最も影響力のある100人」のなかで、「アーティストとエンターテイナー20人」の1人に選出されています。

ほとんどの人が一度は名前を聞いたことのある“喜劇王”チャップリンは、どのような時代のなかで、どんなライフスタイルを生きたのでしょうか。

■初舞台から貧困の少年時代

イギリス、ロンドンで生を受けたチャーリー・チャプリン。両親は彼が1歳の時に離婚し、母のもとで育ちます。両親ともミュージック・ホールの俳優でした。

チャーリーは5歳の時、のどを痛めてしまった母に代わり、きゅうきょ舞台に立つことに。この初舞台では歌を歌って客の喝采をあびます。しかし母はこれ以降も舞台にたつことができなくなり、そのうえ精神に異常を来たしてしまい、次第に貧困の生活の中におちてゆきます。

底辺の生活を余儀なくされたチャーリーは、あらゆる仕事をし、時には泥棒すらもしなければ生きていけませんでした。そんな生活のかたわら両親の影響もあってか、俳優にあこがれ、10歳の時にあるダンス一座に加わります。

14歳から本格的に舞台俳優として様々な脇役をこなし、演技に磨きをかけてゆくチャーリー。その後パントマイム劇団へと籍を移し、当たり役を獲得。小さな劇団ながら、看板役者の地位を得るまでになりました。

■映画界への進出

2度目のアメリカ巡業では、ある映画プロデューサーの目にとまり、週給150ドルで契約、これ以降アメリカが主な活動の場になります。チャーリーが24歳の時でした。

翌年には『成功争ひ』で映画デヴュー。そして2作目『ベニスの子供用自動車レース』の扮装であった、「山高帽」「ステッキ」「ぶかぶかのズボン」「ちょびひげ」などが以降彼のトレードマークとなりました。このあと『放浪紳士(The Little Tramp)とあだ名されたチャーリー・チャプリンは、70本以上の映画で活躍してゆくことなります。

■確実な成功へのステップ

アメリカでの活動開始から2年後、週給1250ドルの契約で移籍。自らが監督、脚本、主演をこなした映画は好評を博し、さらにその一年後には週給1万ドル、ボーナスでさらに15万ドル、年額67万ドルの契約を獲得します。その後、さらに契約金額は100万ドルへ。完全に成功者への軌道にのりました。

時代はすでにトーキー(音声)映画が過半数を占めましたが、チャプリンはサイレントにこだわり続け、そして笑いの中に、言葉では伝えられないような様々なメッセージを込め始めます。特に、時代を反映した風刺表現は、彼の作品をいっそう際立たせました。

■映画『独裁者』に込めたメッセージ。そして国外追放

32歳の時には、アメリカで大ヒットした映画を携えヨーロッパへ行きました。
故国イギリス、パリ、そしてベルリンへと、戦後のヨーロッパの各都市を訪問したチャップリンは、戦争の大きな傷跡を人々の生活の中に見いだします。生粋のコメディアンであった彼は、「人々の再び笑顔を取り戻したい」と思ったことでしょう。

1939年、彼が50歳の時にドイツがポーランドへ侵攻、第二次世界大戦が勃発します。チャップリンはファシズムに強い警戒感を抱き、『独裁者』の製作に着手します。

偶然にも、チャプリンと見た目がそっくりなヒトラーを自演することで、ナチスと白人主義を痛烈に風刺。時には脅迫され、身の危険を何度も経験します。

『独裁者』より前に手掛けた映画『モダン・タイムス』では、資本主義や機械文明を風刺していたこともあり、ソ連との冷戦に突入したばかりのアメリカ政府から、『共産主義容認派』としてのレッテルを貼られてしまいます。

あるときロンドンへ、映画のプレミアで向かっているときに、アメリカから国外追放となったことを知りました。以降、中立国であるスイスへ移住を余儀なくされてしまいます。

再びアメリカの地を踏んだのは、1972年、彼が83歳の時でした。アカデミー賞名誉賞に受賞したチャプリンに、ハリウッドは彼に国外退去を阻止できなかったことを謝罪し、観客は5分間のスタンディング・オベーションで彼を迎えました。

■完璧主義。映画作りへの情熱

自らメガホンをとったチャプリンはまさに完璧主義で、数秒のカットに、何百テイクもかけることもありました。『街の灯』という作品では、盲目の花売りの少女との数分の出会いのシーンに300回以上ものNGを出し、全製作日数のうち、半分以上を費やしたといわれています。

彼の名言に次のようなものがあります。

『無駄な一日。それは笑いのない日である。』
『私の最高傑作は次回作だ。』
『笑いとはすなわち反抗精神である。』

妥協のない映画制作と演技で、人々を笑わせること。チャプリンにとって、このライフスタイルこそが最大の幸福でした。そしてまたそれは、人々を脅かし、笑顔を奪う体制への大きな武器にもなったのです。

晩年はスイスの自身の邸宅で、37歳年の離れた4人目妻、ウーナと8人の子どもに囲まれ、88歳のクリスマスの時に亡くなるまで穏やかな老後を送りました。

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